私は、酒の入ったコップを傾けながら、60年余りの道のりを辿ってきたことを、誰に聞かせるでもなく語り始めた 。
私は若い頃から、好んでアルコール類を飲んでいました。
哀しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、楽しいとき、何かにつけて私の生活からアルコール類を欠かしたことがありませんでした。
アルコール類が好きなのは、私だけではありません。脳性マヒ者の仲間で男女を問わず、大半が私と同じで、アルコール類が好きでした。
脳性マヒの障害の特徴は、アテトーゼによる手足の硬直にあり、アルコールを飲んで酔っている間、アテトーゼによる手足の硬直が和らげ、その間、気持ちも体も非常にリラックスになり、何をするにも楽になります。
確かに酔っている間は、身も心もリラックスし、障害が無くなったような錯覚を起こし、ルンルンな気持ちになっていきますが、酔いが醒めかかった頃になりますと、アテトーゼが戻ってきて手足の硬直が始まり、お酒を飲まなかった頃より、不自由さが増して行き、自分の障害が重く感じる錯覚に陥り、 又、酒を飲みます。
その繰り返しで、対には本当に自分の障害を重くして行った、仲間を多く見てきた私は、三十五、六才の頃から(脳性マヒ者には、アルコールは出来る限り避けた方がよいと言うことだった)と気付いていたのですが楽になるにはこれしかなかった。飲まなくても同じく結果、老化と頸椎症に悩ませられる事になる。
私を含めて脳性麻痺の方達は(身体障害者・一部(知的障害)もいるが身体障害が多いようだ。
脳性麻痺は読んで字のごとく「脳神経が妊娠中や出産時、出産後に何らかの影響で脳神経に損傷をうけたもの。
特に運動神経、っと言ってもスポーツ音痴ではない。身体のすべてにわたって「動き」が侵される。
パターンはいろいろだが重度化している方達は乳幼児の時から「首は据わらない状態」で成長している。これが頸椎症にむすびつき。首の痛みや肩から腕の痺れと市販の痛みどめを飲んでも激痛はとまらない。
アテトーゼタイプは硬直も強く、不随運動も多いのでこれを押さえるには気力・体力ともになみではなく毎日朝から晩までサッカーのピッチを走り回っているようなもんだ。ゲームなら前半と後半の間に休めるがこの身体には休息は殆ど無い。
トイレの時など手すりや壁に頭や肘、膝、背中を打ち付け廊下に倒れこむ。日常茶飯事の事だ。
苦し紛れに酒をあおる日々が続く。アルチュウである。精神安定剤も効かなくなって身動きがとれなくなってしまった。
寝たきりにちかい状態になって、オムツを着けて食事もヘルパーから介助してもらう有様だ。
精神科へ行き診察、老化にともない40年以上服薬していた「セルシン」が効かなくなって中毒症になった。+アルチュウだ。
医療用のアルコールを飲んで救急搬送された。
眠れない日々、ここから脱出するのには地獄の苦痛というのはこういう事かも。
全身の筋肉が異常な緊張をして、それにともない 不安、緊張、焦燥(しょうそう)(あせり)、の症状がおそいかかる。
死をえらぼうと何度思った事か。
それを引き止めた一人のヘルパーの一言「生きて下さい。」と泣き顔で言う。これには驚いた。
長年付き会いのある支援センターの職員や兄は「酒ばかり飲んでると死ぬぞ」とか「皆に迷惑をかけるな」などの言葉しか聞こえてこなかった。兄にかんしては「お前は俺の誇りなんだ。だからきちんとしてくれ」。その言葉は15年ほど前の兄の結婚式で聞きたかった言葉だった。
しかし、ヘルパーとはいえ他人で当時は2年程くらいしか来ていないのに「情」があつい方なんだな。と思った。
泣きながら「裏切らないで下さい。生きて下さい。」と言われたら男として、人間として恥だよな。
ありがとうね。
今は若いヘルパーにつきあってもう少し生きてみるか。という気分だ。
激痛をごまかすために時々ウイスキーをストレートで飲む。心身ともにクネクネになってヘルパーに迷惑をかけているのは承知していた。すまない。という気持ちは常に心を汚す。
2015年1月20日の通院で精神科医に飲酒記録をつけろ。と言われた。頸椎症も脳性麻痺もよく解からない医者が何を言うか。ならば徹底的に我慢して、飲酒記録ノートを白紙にして。アルチュウではなくなった事を証明してやろう。
頸椎症は手術しても回復は望めない。それどころか悪化する人の方が多い。労災病院で普通の手術では無理、入院して鉄の棒とボルトで固定するしかない。と言われたので最後の手段にしておく。
父が死に祖母も後を追うように亡くなり、年老いた母は兄に家を任せた時期から須藤の家族には、脳性マヒ者の私を差別することで、一家の和が保てていたのかもしれません。私は兄や姉の結婚式に一度も出席した事が無い。
私の自尊心を根元から引きちぎる事がおきた。家を継いだ兄の結婚式での事だ。結婚式・披露宴の席は用意しない。だけど家には来い、世間体があるからだ。というものだ。
母と私の預金から式台を無理やりに引き出させて結婚式をやったのだ。それでいて「お前は醜いから式には出さない」と言いぐさだ。
私は世話になっているから祝金として他人には言えないほどの多額の金を出した。
しかし、母にしてみれば二人とも大切な息子だ。結婚式に出してほしい。と涙ながらに頼んだが聞きいれようとはしなかった。
上の兄や姉たちも止めるどころか反対も、欠席もせず。世間体が大事と私を施設に迎えに来て無理やりに車に乗せて家に着いた。
御近所の人達が夜の祝い膳の準備に来てくれていた。「よかったね。兄ちゃんに嫁さんが来て」と笑顔で言ってくれた。一人の小母ちゃんが不思議そうに「小父っちゃは式に出ないでいいのかい」と聞いてきた。とっさに私は「はい、体が不自由なので夜、皆さんと御一緒に頂きますからいいですよ」と答えた。
私一人を家においておくわけにもいかず二女の姉が急きょ欠席する結果になった。
私、30歳。一様、障害者活動や社会活動をして一定の成果も出していた頃でした。
好きな女も抱いたし、夜の街をも出歩いた。朝帰りも何度かした。これでいい、これでいい。
それでも生きている。これからも苦しく生きていくであろう。しぶとくしとく生きていく。