精神科の診断と治療を
新作
F・Bがダメだから。
美と性
ぼくの足は電動車いす
テスト的に
顔もね。
何歳に見えますか。
秋はなんの秋。
SNS
突然の訪問者
絶対的存在
還暦過ぎて現役性行為
心も体も・・・。
なぜヌードを作成するか。
思う事が有る。
今まで数多くの絵や写真を描いたり撮ったりしてきてヌードだけは厭きない。
「この世で一番きれいなもの何か」と問われたら、迷わず「裸婦」と答える。
若かりし頃は女性の裸体にエロスを感じたこともあったがつきつめていくうちに花や蝶、鹿や白鳥など自然のものと同じく思えるようになった。
自然界に生きるものはすべて裸で暮らしているし、なんの不自由もないのだ。
独自の進化をとげた人類だけが衣服で身を包むようになった。その理由は複数あるが、ここではふれないでおこう。
とにもかくにも裸を捨てた人類は自然界からみれば異物、異端者であろう。
昨今は飼っているペットにまで帽子をかぶせたり衣服を着せる有り様だ。私から言わせれば少々いきすぎだ。
エロスの無い裸婦は無いし、裸婦だけがエロスでも無い。
古代壁画や仏像にエロスを感じる者は少ないであろう。もし仏像のたまらくエロスを感じる人が居たら一度、精神鑑定をおすすめしたい。
だが仏像(仏)じたい中性的に作られているので男女どちらともとらえられる。○○如来や菩薩というくらいだからね。
キリスト教の聖母マリア天使などもふくふくしく丸みをつけて描かれたり作られている。
全ての者に安らぎと幸福をあたえるために丸みをおびた御顔だちや体型に仕上げてある。角ばっていたらおどろおどろしくって有りがたみがないからね。
さて、もどるとして。女体の曲線はエもいわれぬ柔らかさを醸し出している。これには若き男性はエロスを感じるのは無理からぬ事だ。
それが健康な心身であり健全な気持ちだ。でなければ子孫は残せないからね。
私は裸婦に性的感情はほとんど感じないようになってきている。
モデルの裸体にいちいちエロスを感じていては良い絵や写真は描けないし撮れない。
だからといって愛する女性と風呂をともに入ったり求められても欲情しなければ男性として機能不全だ。
誰でもそうだが脳内に「理性」という切り替えスイッチが有ってオンとオフに使い分けられている。
私の場合には、このスイッチのオン・オフがとてつもなく早く深いようだ。
撮影の前にモデルとマネージャー、私と三人で打ち合わせをしてモデルが衣服を脱ぎ始めたとたんに私の性的スイッチはオフになり、美的スイッチがオンになる。
ファインダー(液晶)をのぞいているとき裸体は物体(静物)となって光と影、色と艶のみを追う。
気に入らない体制(ポーズ)だと相手が女性であることも忘れて怒鳴ることも多い。
脚を開かせて陰部が丸見えで仰け反らせモデルが嫌がっても撮れるまで許さない事も有る。
よし、と撮影やデッサンが終えた瞬間に「ごめんね」と私は普段の顔に戻る。
モデルが言うには「須藤さん。落差激しすぎるよ。体制キツいんだから。もっとこっちに気をつかってよ」と叱られる。
私は「プロでしょ。2時間3万円、払ってるんだよ。我慢して」とモデルとマネージャーに言い返す。
こんな撮影を1年に3・4回繰り返して行い。モデルとも気持ちがとけあうリラックスな関係になっていく。
撮影後に食事やお酒を飲んだりもした。モデルのプライベートな話しを聞いたりもした。
ひたしくなればポーズもおのずと大胆になっていき、真正面から陰部ギリギリのアングルも多くなって。まるで彼女と愛し合っているかのごとき絵や画像が撮れる。
こうなると美とエロスの境目が薄く、自慰行為もしてもらって様子を描いたり写す。
自慰行為をしている女性の裸体は水っぽく白い肌が桃色に染まって艶やかだ。
ある日、マネージャーが付いて来れなくってモデルだけの撮影になった。
場所はいつも使っているラブ・ホテルの一室。部屋代が安いし、時間で使えるのでいつもラブ・ホテルを使っているのです。
窓際にいって全裸で自慰行為をしてもろうことに、だんだんと艶やかな肌になってきたモデル。
ビデオ・ムービーではないので動画や音声は入らない。いや、入らない方がいい。
あまりの自慰行為にモデルは喘ぎ声もあげてしまっていた。
5月の過ごしやすい気温にもかかわらず、しっぽりと汗ばんできていた。
薄いカーテン越しに夕日が汗ばんだモデルの乳房をオレンジ色に輝かせた。
モデルの声とシャッター音だけが室内に響いた。
私は「さぁ、終わりにしよう。もういいよ、シャワーで汗流して」とモデルに言った。
股間から手を放してソファーから立ち上がったモデル。
私の前で腰に手を当てて仁王立ち。
「ねぇ、須藤さんってエッチできないの。それとも、しないの。どっち」と聞いてきた。
予想はしていた。22歳という若い女体で性行為なしの自慰行為だけでは身が辛い。
「しないよ。君とはね、モデルだもんさ。早くシャワー浴びてきな。帰るよ」と私はつれなく返事をかえした。
「あっ、そ。モデルとはしないんだ。こんなにしておいて責任とってよね。どうするのこの体。なら、モデルやめる。今から止める。普通の女とならできるでしょ」と強い口調でモデルが言う。
「悪かった。火つけちゃって、ごめん。でも、できないものはできない」と私は返した。
「これでも、できないの」と車椅子に座っている私の膝に股間をすりよせてきた。
「わかった。むこうへいこう」とモデルの手をとってベッドに上がった。
仰向けに寝かせて両脚を少し開かせて陰部に右手をもっていき左手で右の乳房を撫でた。
このモデルの膣のヒダは小さい。開かなくてもクリトリスに指はとどく、手のひらで陰部全体を撫でながら右手で乳房を撫でる。ゆっくりと、優しく。
何度か同じ動きを繰り返すとモデルは溜息をつくようにイった。
愛液で濡れ、滑っとしている膣に中指と薬指を入れてGスポットを探る。
ひかくてき浅い場所に有った。二本の指を少し曲げるようにして腕と指を前後に細かく動かしてGスポットを刺激すると甲高い声で喘いだ。
3・4回イカせて「どう、気がすんだかい。まだ、するかい」と聞いたら「本ちゃんはしないの。入れたくないの」と聞いてきた。
「しないよ。したらダメなんだよ。いい、わかった。俺たち他人なんだよ」と言い聞かせた。
モデルはゆっくりと起き上がってバスルームへと行った。シャワーの音が聞こえた。
私は洗面台で愛液でべたつく手を洗い流してカメラをリュックにしまってモデルがバスルームから出てくるのを待った。
20分ほどで身体を洗い終えたモデルがバスタオルに身を包んで出てきた。
「さっぱりしたかい。汗かいたもんな。はい、これ今日の代金」茶封筒に入れておいた3万円を渡すと「今日は貰うけど今度から要らないし、本気で付き合ってくんない。それとも私じゃダメ。他にいい人居るの」と聞く。
「いゃ、居ないよ。君のこと考えさせて。次のとききちんと答えたい」と返事をしたら「うん。いいよ、次ね」とモデルに笑顔がもどった。
シャワーの後の濡れた肌を乾いたタオルで拭き取りソファーに置いてあった服を着て私の車椅子を押して部屋を出た二人。
直江津水族館の近く、その名も「イルカ食堂」に行きカレーとビールを注文。窓から見える日本海。夕日も沈み青暗くなってぃた。
「またメールするから。今月の終わりぐらいでどう。マネジャーに聞いといて」と私。
「帰ったら辞表だすから事務所に、ほんと。止めるから。直接していいからメールね、おねがい」とモデル。
食べ終えたら夜の7時になっていた。直江津駅まで見送りに行き。またイルカ食堂に戻って呑みなおした。帰りは10時過ぎてアパートへ。
カーペットに寝転びながら面白くも無いテレビを見つめて考えた。
あんモデルと付き合ったら本当に好きな裸婦は撮れなくなる。感情を入れすぎたら良い作品はできない。
あのすきとうるような肌、まるで海から上げたばかりで、とりたてのイカのように瑞々しい裸体はこのうえない美だ。
付き合えばその魅力が半減する。いや、何も無くなるかもしれない。それは嫌だ。
今までもそうだったように好きになると感情が強く入ってしまって思うような作品ができなかった事がある。
彼女とモデルを分けなければいけない。その事が彼女に理解できるだろうか。
彼が自分以外の別の女の裸を描いたり撮ったりするのを平気でいられるだろうか。
そのへんのところをじっくりと話し合わなければいけない。どうする。
答が出せぬまま半月が過ぎてモデルと逢う日が来た。
今回もマネージャーは一緒ではなくモデル一人で直江津駅に降り立っていた。
タクシーで迎えに行くと駅の出入り口の外で待っていた。
私がタクシーから降りる前に近付いてドアを開けて乗り込んできた。
「ホテルじゃなくって須藤さんのアパートに行こう、ねいいでしょ」とモデル。
運転手にアパートに行くよう頼んだ私。
数分でアパートに着いた。玄関を開けて部屋に入ってオートロックを入れた。
電話で介護ヘルパーを全部断った。今日と明日の夜まで二人っきりだ。
「まぁ、座って。ビール飲むかい、チュウハイやウイスキー、日本酒も有るよ。どれにする」と私が聞くと「とりあえずビールください」とモデル。
刺身のパックとスナック菓子をテーブルに並べて私は麦茶を飲んだ。
「このあいだ言ったけど、モデル止めたしね。もう普通の女だし。なにしてもいいよ。身体、傷になっつても誰も文句言わないよ。すきにしていいよ」とスルメイカを奥歯で噛みながら言うモデル。
「俺だけのモデルになってくれないかな。それと付き合ってもエッチはしないって約束してくれない。エッチな関係になると良い写真や絵ができないからね。いいでしょう」と私が頼むと「えぇー、そんなー。したいからモデル止めやのに―、ずるーい」と頬をふくらませるモデル。
「じゃぁ、たまにエッチしてもいいよ。それで裸も撮ってもいいだろう。でなきゃ付き合わないよ、いいの」と私は強気に言った。
モデルは小さくうなずいて服を脱いでソファーに座って脚を組み窓を見つめるポーズをとった。
こんな奇妙な男女関係がスタートした。
しかし、私がアルコール依存症になって二度目の入院をして絵も写真も出来なくなってモデルとも連絡出来ずに3年が過ぎた。
昨年(2018年)の秋になんとかメールでの連絡ができるようになって再会もできた。
モデル・本名○○茜は25歳になって色気もそこそこ出てきたようです。
精神的にも落ち着いてきて言葉遣いや対人関係もぐっと良くなった。
20代半ばになって肌の張りや艶が変化したかと思ったが、すきとうる肌はそのままに色艶が増したように感じる。
11月に写真を撮ってじっくりと観たが今までより良い仕上がりになっている。
茜とは付き合いはじめて一度しか性行為をしていない。それも成り行きで雰囲気が良かったからで、意識的にしようと意気込んでしたわけどはない。
そもそも性行為は意気込んでするものでもないだろう。妊娠や性的快楽が目的なら意気込んでもよいけどね。
自然界においては子孫を残すためにだけ性的行為は成り立つ。
それを人間は快楽として用いて楽しむようになった。そこから男女差別や行為自体を売り買いする性産業がはじまった。
女性の裸体の美しさだけを追求するのなら性行為は無くってよい。無い方が冷静に美だけを主張できる。
私は絵を描いたり写真を撮るときに「理学・科学」を常においている。
例えば、影の無い絵は無い。なぜ影ができるのか。光のそそぎ具合でまったく別のモノに変わる。もっと言えば、優しく淑やかな婦人が妖艶で淫乱な娼婦に変貌することもできる。
女性が普段表すことの無い表情を引きだし、隠されている闇のようなモノの光を当てて写し撮る。
真逆に娼婦を明るく柔らかな日差しのような光を当てて、あどけない少女の表情に戻して曲線の柔らかい裸体にもできる。
生まれつきの娼婦はいないからね。
それが裸婦・ヌード画として「絵、写真、CGグラフィックス」の楽しさと役割だと思う。
裸婦・ヌードは人間の歴史だと思う。
性的エロシズムが有ろうが無かろうが「美」としての裸婦は存在する。
それでいい。そこにどっぷりと身も心も漬かって居る楽しさだ。
先日、2019年4月13日に茜と二回目の性行為をもった後に裸体の写真を撮ってみた。
純な少女の表情と妖艶な娼婦のような二面をもつ不思議な作品に仕上がった。
私は今後も動ける限り条件は違っても裸婦を描き、撮り続けるだろう。